【 副住職の僧侶研修旅行2014 in新潟・富山 】 12月10日(水)・12月11日(木)

このたび副住職が、東北教区福島南組のご住職方と、僧侶研修旅行に参加してまいりました。

冬の北陸ですので少々おびえておりましたが、雪は降らず(積雪はありました)、1日目のお天気は晴れ、2日目は雨でした。

その時のご報告を兼ねて、写真を掲載します。

北陸へ旅行のご予定がある方には、少し参考になるかもしれません。

< 1日目 新潟 ~上越高田周辺~ >

【 浄興寺(浄興寺派) 】

 

親鸞聖人が常陸国(茨城県)におられた時の稲田草庵が、浄興寺の起源ということです。

火災と移転等を繰り返し、現在の寺地(上越)に移ってきたとのこと。

なお、現在の稲田草庵跡には、西念寺(茨城県)が建立されています。

親鸞聖人のご頂骨(頭のてっぺんの骨)が納められているとされるご本廟があります。

真宗浄興寺派という一派を形成し、そのご本山ということで、末寺も抱えています。

また、浄興寺周辺は寺町といい、数十ヶ寺のお寺がひしめき合っており(文字通りお隣さんどうしがお寺なのです)、宗派もバラバラで、城下町の形成の折に集められたのであろう当時の名残りが面白かったです。

【 本願寺国府別院(本願寺派) 】


本山直属の寺院なのですが、お内陣中央に、阿弥陀様と親鸞聖人が並んでいます。

向かって左に親鸞聖人、右に阿弥陀様です。

天井の絵画が素晴らしく、お内陣と外陣ではまた雰囲気が違います。

境内には親鸞聖人袈裟掛けの松がかつてありましたが、今は伐採されているとのこと。

越後(新潟)にはこのような親鸞聖人にまつわる伝説的なお話がたくさん残されています。

この国府別院は、親鸞聖人が住まわれた竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)の跡地であり、恵信尼様とのご結婚生活を営まれた場所ということです。

【 光源寺(大谷派) 】


親鸞聖人が流罪を赦免されたときの嬉しい表情を描いたとされる「御満悦の御真影」があります。

ここは本堂の中に御影堂と阿弥陀堂が併設されているという、大変珍しい造りになっています。

普通、浄土真宗のお寺だと、お内陣に向かって左右に余間という部屋があり、そこには聖徳太子や七高僧の影像がかけられています。しかしこちらのお寺は、私たちが北余間と言っている部屋が実は阿弥陀堂になっており、もちろんそこの中央には阿弥陀様のお木像が安置されています。お内陣中央には親鸞聖人のご影像がかけられていますが、つまりこちらが御影堂ということらしいです。西本願寺ですと、阿弥陀堂と御影堂は別の建物として並んで建てられていますが、その2つを合体させたご本堂なのです。

恵信尼様ゆかりの宝物もたくさんあり、またゆっくり行ってみたいと感じました。

ご住職にゆっくりご説明をいただきました。

恵信尼様のイメージを頭に浮かべていると、私にはどうしても恵信尼様=玉日姫ではなくて、別人であったほうが筋が通るように思うのですが、いかがでしょうか。玉日姫伝説も最近は物証が増えてきていますから、そろそろ本願寺派の定説がくつがえる日が来るかもしれません。

【 五智国分寺 】


現在は天台宗の寺院ですが、ここには、親鸞聖人が越後に上陸されて最初に住まわれた竹之内草庵跡があります。

上杉謙信によって移転させられ、現在の寺地となっています。

三重塔は県指定の文化財となっています。この塔は江戸時代に再建されています。

また、この国分寺の近くに鏡ヶ池があり、親鸞聖人がその池にご自分の姿を写して、それを見ながらお木像を彫刻したと伝えられています。

【 居多神社 】


親鸞聖人が越後に上陸後、はじめに訪れた神社だそうです。

聖人が越後を離れる際、葦(植物です)がその名残りを惜しみ、関東のほうを向いて合掌したとされる片葉の葦があります。

【 居多ヶ浜 】


親鸞聖人御上陸の地。3月下旬のことだったそうですので、冬の日本海よりは波は穏やかだったでしょう。

今回は冬なので、結構荒れていました。

人は全然いませんでしたが、車はかなり通っていました。

見真堂というお堂があるのですが、今回は工事のため、参拝できませんでした。

親鸞聖人のお聖教には「海」という字がたくさん出てきますね。

このあと日本海沿いを富山まで移動し、1日目は終了。

新潟県が縦に長いことは知っていましたが、今回実感しました。

2日目は初めての富山です。

< 2日目 ~富山⇒五箇山合掌集落~ >

【 本願寺富山別院(本願寺派) 】

 

明治時代に別院に格上げされたお寺です。戦時は空襲などで数回焼失しています。

ホールは広く、椅子も完備されているので、参拝しやすいでしょう。

【 瑞泉寺(大谷派 井波別院) 】


本願寺第5代綽如上人開基。

数度の火災により再建されて、今日に至っています。

本堂と同じくらい大きい太子堂や、大きな山門は壮観です。

またここは、一向一揆の拠点だった時があり、その名残りとして石垣も残されています。

江戸時代に、瑞泉寺再建のために本願寺から派遣された御用彫刻師から技術が伝わり、以来この井波(いなみ)は、彫刻で有名。井波彫刻は昭和50年に伝統工芸品の指定を受けています。

ですから、瑞泉寺にはたくさんの彫刻が施されており、「こんなところにも!」と驚くことが多かったです。

大変精密な彫刻で、目を奪われます。

信仰の場所であると同時に、文化財としての価値も大変に高いお寺です。

また、この瑞泉寺に本願寺第8代蓮如上人がおられたとき、蓮如上人の教化を受けた篤信の信者(妙好人)である赤尾の道宗さんが瑞泉寺まで通った道が、道宗道として残っています。五箇山合掌集落の中にある、赤尾の道宗さんのお寺(行徳寺)には、このあと参拝しました。

ここは写真をたくさんアップします。

【 五箇山合掌集落 】


言わずと知れた世界遺産!

生で見るのは初めてでした。数日前に降った雪がたくさん残っていました。

見るほうは風情があっていいと思うけれど、住んでいる方々は大変です。

景観を壊してもいけないので、維持するご苦労が偲ばれます。

もともとは天台宗の集落だったようですが、蓮如上人が布教されてから浄土真宗に改宗したそうです。

そのため、それまでの天台系のお経を埋めたとされる「経塚」という地名も残っています。

江戸時代は加賀藩の流刑地とされ、川に橋も架けられませんでした。

加賀藩は一向一揆でさんざん苦しみましたが、浄土真宗の集落である五箇山を領地にしていた理由の一つは、火薬です。

五箇山では塩硝という火薬の元がたくさん製造されており(多分黒色火薬そのものも製造していた)、加賀藩は幕府や他藩に内緒で、この五箇山から火薬を調達していたようです。

ペリーが日本に来て開国した後は、海外の安い火薬が大量に輸入されましたから、五箇山の火薬製造は廃れていきました。

また茅葺屋根の建物の中では養蚕がさかんで、いまもその当時の設備を見ることができます。

和紙の製造も盛んで、私は半紙や画仙紙を購入いたしました。

ちなみに、岐阜にある白川郷の合掌集落も世界遺産ですが、白川郷と五箇山の屋根を比べると、五箇山のほうが傾斜が急(ほぼ60度)だそうです。これは雪質の違いによるもので、白川郷の雪は比較的軽いのですが、五箇山は水分が多く重い雪なので、傾斜を急にしなければ屋根がつぶれてしまうのです。

また、茅葺屋根の集落で最も恐ろしいのは火事だそうです。茅はあっという間に燃えますし、そこで発生した上昇気流に乗って、火のついた茅が飛び散り、ほかの家を巻き込む大火事になる危険性があるとのこと。ですから、あちこちに「放水銃」の設備がありました。

維持していきたいという思いと、維持し続けるのが難しいという現実。

家を住みやすく、新しくしたいけれど、現状のままに保存しなければならないという歯がゆさ。

当たり前ですが、住んでいる人にはいろいろな感情があります。

世界遺産になったことは、果たして幸か不幸か。

そんなことも感じました。

【 岩瀬家(合掌集落内) 】


ここは、加賀藩に塩硝を納める取りまとめをしていた家で、武士の格式を与えられていたそうです。

なんと5階建ての茅葺屋根建築で、上3階は養蚕のために使っていました。

現代のご当主にいわれをご説明いただきました。

私は高いところが嫌いなので、はしごのような階段の昇り降りは、足の裏がムズムズしました・・・。

【 行徳寺(大谷派 合掌集落内) 】

 

先ほどの瑞泉寺で少し紹介しましたが、赤尾の道宗さんのお寺です。

坊守様がご説明くださいました。

蓮如上人と道宗さんのエピソードは有名なものが多いですので、知っている方も多いでしょう。ぜひ調べてみてください。

「阿弥陀様のご恩を忘れぬよう、薪の上で寝て、痛さに目を覚ました時にまたご恩を思い出す」というお話の通りのお木像を特別に見せてくださいました!ふつうは写真で見てもらうそうです。これは鳥肌が立ちました。

また、版画家の棟方志功が富山県の福光町(今は南砺市)に住んでいた時があるのですが、その時に行徳寺に来て、このお木像の姿を版画に彫り、その残っている版木も見せていただきました。

道宗さんは、ご自分に常に厳しい目を向け続けた人でした。

厳しい自然の中にあって、信仰を拠り所として歩まれた方でした。

身の引き締まるお寺でした。

ということで、一泊二日の新潟・富山参拝旅行から無事に帰りました。

またどこか、参拝に出かけた折には、ホームページに掲載します。


近いようで、結構遠い北陸でした。

けれどもうすぐ新幹線が開通するので、大分便利になるでしょうね。