大網奥之坊常瑞寺の歴史と沿革


江戸時代の常瑞寺
江戸時代の常瑞寺

 当寺は、如信上人によって開基されました。上人は、親鸞聖人の子息である慈信房善鸞大徳の長男として誕生しました。つまり如信上人から見て、親鸞聖人は祖父にあたります。幼少のころから祖父親鸞聖人のもとで修学し、浄土真宗の御教えを継承しました。浄土真宗の各派は、如信上人を第二世と位置づけています。


如信上人が親鸞聖人のもとを離れ東国に旅立たれたのは、弘長二年(1262)初冬(10月)中旬であると当寺には伝わっています。聖人が御遷化になられる1ヶ月半前のことです。祖父は旅立つ孫へ聖人御自作の御影像(御木像)を付属され、

「自身の東国での思い出・善鸞の廃嫡は浄土真宗の教えにない加持祈祷を行ったこと・如信には自分と同一の信心に生きてほしいとの願い・東国門弟の教化の委託」

の御遺言を伝えます。

上人が奥州白河大網(現、西白河郡泉崎村大字北平山字古寺)を終の棲家とするのは、30歳代半ばの文永六年(1269)のことです。庵は、お弟子乗善房が所有していたものです。この庵の前身は、源義経の忠臣であった佐藤継信・忠信兄弟の母が二人の死をこの地で知り、菩提を弔うために建てた阿弥陀堂(大網堂とも、大海堂とも)でした。

如信上人は、乗善房の庵(現茨城県大子町上金沢)で御遷化になります。毎年、上人は親鸞聖人ご往生の日(11月28日)には京都の御廟所を参拝していました。この如信上人のお勤めが、のちに報恩講という形式に整っていったと伝えられています。

正安二年(1300)、上人は京都からの帰路、いつものように上金沢の地に立ち寄りましたが、急の病に倒れ二、三日寝込んで正月四日に息絶えました。本願寺第三世覚如上人はこれを知り、三回忌までの法要を京都でお勤めになり、正和元年(1312)、上人終焉の地である上金沢に至って仏事を営み、さらに大網の本坊に詣でて十三回忌の法要をお勤めされます。ご遺骸は、正和四年(1315)、上金沢の地で火葬にし、本坊(大網奥之坊)へ改葬しました。翌年、如信上人廟所(大網本廟)において十七回忌が営まれました。

 

寺基は、寛永四年(1627)の頃、十五世信円(号如祐、白河風土記は法祐と記載)の代に領主丹羽長重の命によって、大網本廟を北平山の地に残して現在地へ移転しました。移転当初は、西念寺という寺院名でしたが、ほどなくして常瑞寺を名乗ります。『白河風土記』は「此弥陀の像火焔の中より免れ出て霊場不思議を顕せし云々」と、寺院名が変わった訳を記します。中庭の句碑には、庭造営の年号が「正保四丁」(1647)と刻まれており、信円は句碑が建った四年後、86歳で示寂しました。

その後当寺は、何度かの火災にあいました。記録にあるだけでも安永年間の大火、明治十五年の大火に被災しました。また、近くは昭和十一年に全焼しています。これらの火災により、親鸞聖人の御遺骨を彩色した御自作の御影像(御木像)、如信上人の絵像、親鸞聖人・善鸞大徳・如信上人筆のお名号などを残し、多くの宝物・記録類が焼散失しました。

現在の本堂は、昭和二十九年に建立しました。お内陣は平成四年に修復し、平成六年には大網本廟を改修しました。

 

宗祖灰骨の御影と如信上人御本廟をお守りして七百有余年、常に上人の御心を帯し、真宗法血脈を次第相承してきたのが大網奥之坊常瑞寺です。